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歴史的記念物

文化遺跡

歴史的記念物

九千(ゲョン)洞の抗日激戦地

九千(ゲョン)洞の抗日激戦地

旧韓末の救国抗戦で赫々たる功績を残した義兵隊長の文泰瑞(ムン・テソ)将軍が、1908年2月に日本軍の憲兵隊と激戦を繰り広げ大勝した抗日の激戦地です。かつて激戦地であった九千洞の印月潭の付近には、文泰瑞将軍の殉国碑があります。

位置
位置 全羅北道 茂朱郡 雪川面 白蓮寺道

七洲議

七洲議

1907年の日本の強圧により丁未七條約が締結され、旧韓国の軍隊が解散すると侍衛隊出身の将校の申明善(シン・ミョンソン)が自ら義兵長となり、150名あまりの義兵を集めて徳裕山を根拠地として茂朱や鎮安、そして長水などのあちこちで日本軍と戦い数多くの功績を残しました。申明善将軍は、1908年4月に安城に駐屯中の日本軍の守備隊を攻撃しようと行軍した所、渓谷に潜伏中の日本軍の攻撃を受け対抗する間もなく全隊員と共に戦死しここに埋められました。

七洲議 - 位置, 交通
位置 全羅北道茂朱郡安城面公正(コンジョン)里6
交通
  • 茂朱邑 ⇒ 安城(21.0Km)、バスで25分所要
  • 安城 ⇒ 自然学習院(5.5Km)、自動車で20分所要(安城ターミナル トンアン行き 1日5回)

赤裳山の史庫址

赤裳山の史庫址

朝鮮時代の宣祖25年(1592)の文禄の役の時、ソウルの春秋館を始めとし全国の史庫が焼けて、春秋館を除いた鼎足山、太白山、妙香山、五台山などに新しい史庫を設置しました。しかし、当時の韓国の北方は危険であったため、光海6年(1614)に天恵の要塞で名の知れた茂朱の赤裳山に実録殿を建てて妙香山の実録を移し、仁祖19年(1641)に源閣を建てて王室の族譜である璿源録を保管しました。

その後、1910年に日本によって史庫が廃止されるまでの300年あまりの期間、国家の貴重な国史を保存した韓国の5大史庫のひとつでした。

赤裳山史庫遗址 - 位置, 交通
位置 全羅北道茂朱郡赤裳面山城(サンソン)路960
交通 茂朱邑 ⇒ 山頂湖<赤裳湖>(15.0Km)、自動車で20分所要

赤裳山城

赤裳山城

高麗時代の末の恭愍王23年(1374)に、三道通度寺の崔瑩(チェ・ヨン)将軍が済州を討伐してソウルに上京する途中にここを通りかかり、四面を削り立てたような岸壁に囲まれ天恵の要塞を形成している峻険さに感嘆し、今後に備えて城を築くことを王に建議しました。その後、朝鮮時代に至って山城を修築し、史庫を設置して韓国の国史を守ってきた由緒深い史跡地です。

赤裳山城 - 位置, 交通, 探访路线
位置 全羅北道 茂朱郡 赤裳面 北倉(プクチャン)里山119-1
交通 茂朱邑 ⇒ 赤裳山頂上(15.0Km)、自動車で20分所要
探访路线
  • 探訪コース:北門:茂朱邑 ⇒ 安国寺(15.0Km)、車で20分所要
  • 西門:茂朱邑 ⇒ ソチャン(国道19号線、8.0Km)、バスで15分所要
  • ソチャン村 ⇒ 西門址 徒歩で1時間30分所要